白つつじの会タイトル

明治から昭和初めにかけて活躍した文人 生田長江について紹介します。
※「白つつじ」とは、生田長江が妻の死後、悲嘆の中詠んだ詩の題名。率直にその心情が表され創作のきっかけにもなった作品です。

   
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文芸評論家・翻訳家としての長江先生

 大阪で数年過ごした長江先生は17歳で上京し、青山学院中学部、さらに第一高等学校から東京帝国大学への勉強を続けました。20歳を過ぎたころからいよいよ長江先生の文筆活動が始まります。

 大正時代(1912〜1926)を通じて最も活躍した評論家の一人が長江先生でした。長江先生が最初に世間から注目されたのは、明治39年(1906)、24歳の時に書いた「小栗風葉論」(おぐりふうようろん)という文芸評論です。外国の思想や文学の流れを紹介することが批評家の仕事と思われていた時代に、長江先生は同時代の日本の作家の作品を論じて、新しい批評のスタイルを作ったのです。この論文は当時の文壇に大きな影響を与えました。「長江」というペンネームは、当時翻訳家として有名で先生の恩師でもあった上田敏(うえだびん)氏がこの時に付けてくれたものです。明治末から大正時代にかけて、夏目漱石(なつめそうせき)・森鴎外(もりおうがい)・田山花袋(たやまかたい)・島崎藤村(しまざきとうそん)・泉鏡花(いずみきょうか)など、当時の一流作家を次々と論じていきました。

 大正3年、親友の森田草平(もりたそうへい)とともに雑誌「反響」を創刊したころから、長江先生は積極的に社会評論も書くようになりました。また、演説が得意だった長江先生はあちこちの演説会に積極的に出かけていって、社会の改革について熱心に聴衆に語りかけました。大正時代の進歩的な考え方の潮流を大正デモクラシーと言いますが、長江先生はその中心的な人物でもありました。

 長江先生の評論活動は、誰よりも時代の流れを先取りしたものでした。文芸評論でも社会評論でも、新しい表現をしようとする人々に対して、疑問を感じたときには次々と論争を挑んでいくようなとても活発で積極的な評論活動でした。

 もう一つ忘れてならないのは、翻訳家としての長江先生の業績です。とりわけ、ニーチェというドイツ人哲学者の翻訳は、当時の文壇や思想界に大きな影響を与えたと言われています。詩人の萩原朔太郎(はぎはらさくたろう)は、先生の翻訳したニーチェの思想から多くのヒントを得て、すぐれた詩やエッセイを書き残しました。小説家の横光利一(よこみつりいち)は、先生の翻訳したフランス人作家・フローベールの「サラムボオ」という作品をモデルにして、デビュー作の「日輪」を書いたと言われています。

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