白つつじの会タイトル

明治から昭和初めにかけて活躍した文人 生田長江について紹介します。
※「白つつじ」とは、生田長江が妻の死後、悲嘆の中詠んだ詩の題名。率直にその心情が表され創作のきっかけにもなった作品です。

   
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新人発掘の名人だった長江先生

長江先生は活発な評論で評判を呼ぶ一方で、自分よりもずっと年下の新人を発掘し、育てる名人でもありました。米子出身の詩人・生田春月(いくたしゅんげつ)や、和歌山県出身の小説家・佐藤春夫(さとうはるお)などは、同じ時期に長江先生の弟子になり、先生の家に寝泊まりして直接教えを受けました。「赤とんぼ」の歌で有名な詩人の三木露風(みきろふう)、小説家の島田清次郎(しまだせいじろう)や杉山平助(すぎやまへいすけ)。住井すゑ(すみいすえ)なども長江先生によって世に出た人々です。たくさんのヒット曲で知られる作詞家の藤田まさとも先生の晩年の弟子の一人でした。

長江先生と青鞜

長江先生の評論活動の中でも、女性の権利を大切にしようという主張は大きな比重をもつものでした。ちょうど活発な文芸評論を始めたころ、成美女学校の教師をしていた先生は、校内に閨秀(けいしゅう)文学会という会を作りました。その時の生徒だった平塚らいてうが中心となって、明治44年に「青鞜(せいとう)」という雑誌が誕生します。この雑誌に集まった女性たちは文学というからを打ち破り、積極的に女性解放運動を展開して、女性史に大きな足跡を残しました。高群逸枝(たかむれいつえ)、山川菊枝(やまかわきくえ)など多くの女性著作家が、ここから巣立ちました。
「青鞜」という印象的な名前は、長江先生が名づけたもので、先生はこの運動を親身になって支援しました。アジア・太平洋戦争が終わって女性解放運動から遠ざかっていた平塚らいてうを運動の現場に引き戻し、彼女の活動を支えた童話作家・浜田糸衛(はまだいとえ)もまた、長江先生最後の弟子でした。長江先生の影響は、先生の亡くなった後までしっかりと継承されていたのです。

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