【コスプレDE乗馬】
※乗馬中など、万一落馬等によりお怪我をされた場合、応急処置はもちろん 騎乗者傷害保険も適用されますが、ご心配の方は各自で保険等にご加入ください。 |
↓これまでの撮影会(一部)の様子↓
(すべて女性の皆様です。この日のためにたくさん打ち合わせさせていただきました。すばらしい撮影会となりました。ありがとうございました。)
コスプレ 周瑜(しゅうゆ)
湖畔や森林など場所を変えての撮影となりました。お知り合いのカメラマンをつれてこられての撮影。
【人物データ】 姓名:周瑜(しゅうゆ) 字:公謹(こうきん) 生死年:175〜210 |
★三国志の登場人物として有名で、稀代の軍師諸葛亮孔明のライバルとして描かれている智謀の将。王佐の才があり、孫策(時の呉の将軍)の親友にして、孫権(孫策の次の将軍)のよき補佐の一人であった。 ★赤壁の戦いでは魏の侵略に対し劣勢が確実視されたなかで、呉蜀2国で共同戦線を張り、魏を撃退する大仕事をやってのけ、三国史実上にその名を刻んだ。 ★あだ名に”美周郎”と言われるほどの美男子。 |
コスプレ 曹操(そうそう)
主に園内での撮影
【人物データ】 姓名:曹操(そうそう) 字:孟徳(もうとく) 生死年:155〜220 |
★三国志の登場人物として有名で、魏の劉備玄徳のライバルとして描かれることが多いが、三国志随一の政治家・軍略家・文化人であり、魏の建国〜発展〜三国統一の立役者。 三国志の物語は前半は曹操、後半は諸葛亮が時代を牽引する形でえがかれている。 ★類まれなリーダーシップの持ち主で、当時としてはかなり珍しく、身分立場を超えて広く人材を集め、また活用することにも長けていた。 ★曹操評 曹操評 「非常の人、超世の傑」、「破格の人」(陳寿) 「天下は乱世になろうとしている。一世を風靡する才能が必要だ。よく乱世を鎮められるのは君のような人だ」(橋玄) 「治世の能臣、乱世の奸雄」または「治世の姦賊、乱世の英雄」(許劭) |
コスプレ 陸遜(りくそん)
主に園内での撮影
【人物データ】 姓名:陸遜(りくそん) 字:伯言(はくげん) 生死年:183〜245 |
★三国志上もっとも愛される武将関羽を討ち取った一人である呉の名将。その後は蜀の劉備による侵攻に対し、軍略を発揮、劉備を亡き者にした(夷陵の戦い)功労者。周瑜に劣らない軍師としての才能を持つ。 ★演義では「身長八尺、面如美玉」と体躯堂々たる美男として描かれている。 |
コスプレ 大喬(だいきょう)
主に園内での撮影
【人物データ】 姓名:大喬(だいきょう) 生死年:不明 |
★三国志登場の人物で、妹の小喬とあわせて「江東の二喬」と呼ばれるほどの評判の美人姉妹。孫策の妻でもあった。 孫策が劉勲領の廬江の皖城を攻め取った際、大喬と小喬は捕虜となり、周瑜と義兄弟の契りを結んでいた孫策は、周瑜と共に、孫策は姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を娶って、さらによしみを深めたという。 ★京劇にも 京劇には、「鳳凰二喬」として登場し、孫策・周瑜は彼女らと戦って勝ち、妻にするというものもある。 |
コスプレ 小喬(しょうきょう)
主に園内での撮影
【人物データ】 姓名:小喬(しょうきょう) 生死年:不明 |
★三国志登場の人物で、姉の大喬とあわせて「江東の二喬」と呼ばれるほどの評判の美人姉妹。孫策の妻でもあった。 孫策が劉勲領の廬江の皖城を攻め取った際、大喬と小喬は捕虜となり、周瑜と義兄弟の契りを結んでいた孫策は、周瑜と共に、孫策は姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を娶って、さらによしみを深めたという。 ★諸葛亮の策に利用される 曹操は「江東の二喬を共に侍らせたい」と言っていた・・・。といったことを諸葛亮が周瑜に吹き込んだため、曹操と開戦か、それとも降伏するか迷っていた周瑜は、怒りに燃えて開戦を決意し、孫権に強く進言するようになったという説がある。 (※小喬は周瑜の妻) ★京劇にも 京劇には、「鳳凰二喬」として登場し、孫策・周瑜は彼女らと戦って勝ち、妻にするというものもある。 |
コスプレ 伊達政宗(だてまさむね)
主に園内での撮影
【人物データ】 姓名:伊達政宗(だてまさむね) 生死年:1567〜1636 |
★奥州の戦国大名伊達家の第十七代当主。幼い頃片目を失い、後に「独眼竜政宗」と称された。才気煥発で、家督相続からわずか6年ほどで、東北地方に一大勢力を築きあげる。 その後は豊臣秀吉、次いで徳川家康に属し、江戸幕府では「伊達の親父様(または叔父様)」 と慕われ、信頼されたという。 ★晩年は天下の御意見番に君臨。日本史の表舞台には顔を出さぬが、「独眼竜政宗」の名は誰もが知る。 |
コスプレ 前田慶次(まえだけいじ)
主に園内での撮影
【人物データ】 姓名:前田慶次(まえだけいじ) 生死年:不詳〜1612 |
★武勇に優れた武将でもあり、和漢古今の文学にも通じた風流人。派手な姿、振る舞いを好む傾奇者としても有名。 ★加賀の前田利家の義理の甥であり、実母が利家の長兄・利久に再嫁したため、その養子になったと言われている。本来は前田家を継ぐ身であったが、織田信長が利家を跡継ぎとするよう命じたため、父とともに浪人となった。のちに能登の大名となっていた利家に仕えた。 利久が死去すると利家との折り合いが悪くなり、前田家を出奔。京都で様々な文化人と交流し、なかでも文武両道に秀でた直江兼続と親交を結んでいた。 ★上杉景勝が会津120万石に加増移封されると、上杉家に1千石で仕官した。慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、兼続に従い出陣。長谷堂城からの撤退戦では殿軍(しんがり)を務め、追撃する最上軍相手に奮戦し、上杉軍を見事に撤退させた。 |
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