地元における長江の顕彰は、日野町貝原に住む、県政新聞主幹 遠藤一夫(明治40年〜昭和55年)が、昭和29年2月と3月の町公民館報で「わが町の誇り・生田長江」を発表し、町内外の人々に呼びかけたのが始まりですが、その当時、周囲の反応は鈍いものでした。
ところが、1956年(昭和31年)、長江20周年の法要の際、長江の弟子である赤松月船の講演会が、日野郡仏教会の主催で行われたことが、長江顕彰運動に火をつけました。1957年(昭和32年)5月29日には日野郡社会教育協議会と日野郡仏教会の共同招請で、郡自治会館(根雨)に20数名が集まり、「生田長江顕彰会」が発足、役員には、会長 川上武一郎 副会長 鳥居真隆、井上健治らが選ばれ、顧問には、佐藤春夫、伊福部隆彦、赤松月船らの門人はじめ多くの有力者が名を連ねました。
幹事を務めた遠藤一夫はその基本方針の中で
「顕彰会の運動は、ただ寄付金を集めて顕彰碑を建てるだけでは意味がない。長江先生の業績は、目に見えない精神界のものであると共に、現在から将来にかけて大きな指針となるものであるから、顕彰運動は郷土の人々の心の中に見えざる顕彰碑を打ち建てながら、郷土に見える顕彰碑を建てる必要がある。」と述べています。
この動きに呼応して、6月、東京でも伊福部隆彦(智頭町出身)が世話役となり「東京長江会」(会長 佐藤春夫)が発足しました。
1957年に発足した生田長江顕彰会は、その目的として「1.郷土の生んだ近代文化の先覚者生田長江の人と業績の研究」「2.日野郡内及び県下の文化活動を通じての生田長江の顕彰運動」「3.顕彰碑の建立、長江著作の刊行普及、長江文庫の設置などの事業」を掲げ、各種の事業を行っています。
1957年(昭和32年)8月には、長江晩年の名著「聖典講話」の復刊と「生田長江の人と業績」を二千部出版・印刷するとともに、東京長江会から寄せられた中央の作家、詩人、美術家33名(川端康成、堀口大学、吉川英治、平塚らいてう、尾崎士郎等)の色紙即売会を県内5ヵ所で開き、カンパを呼びかけました
そして、翌1958年11月1日「生田長江顕彰碑」(デザインは伯耆町二部出身の彫刻家 辻晋堂)を、長江が幼いころ漢籍を学んだ延暦寺(日野町根雨)境内に建立さしました。碑には、長江自身のことばと、門人佐藤春夫の撰書による碑文が刻まれています。一方、長江文庫は親族の手により昭和46年(1971年)に日野町貝原の生家跡に建設されました。
残念ながら顕彰会の活動はその後途絶え、長江文庫も閉鎖されましたが、郷土の人たちによる地道な顕彰事業は、冊子や顕彰碑を通じて、いまなお郷土の偉人・長江の魅力と業績を私たちに語りかけ続けています。
1997年(平成9年)に日野町で谷崎昭夫さん(相模女子大学教授)による講演会が開かれたところ、100人を超す参加者が集まり、感銘を新たにしたのが、最近の長江顕彰のきっかけとなりました。
2002年(平成14年)、鳥取県で開催された国民文化祭の行事の中で「生田長江の会」が作られ、その会が中心になってシンポジウムと展示会が行われました。さらに翌2003年(平成15年)には、鳥取県文化振興財団の事業として「郷土出身脚本家の作品を上演しよう」という企画が立てられ、生田長江の戯曲三作品が鳥取県民文化会館を会場に「ドラマリーディング」の形で上演されました。
2004年(平成16年)には、この上演の映像を再演し、ミニシンポジウムを開催しようとの企画が立てられ、米子市の米子コンベンションセンター国際会議場で開催されました。
そして、2006年(平成18年)、鳥取県の「とっとりの文化芸術探訪事業(顕彰事業立ち上げ支援事業)」の対象として生田長江が取り上げられたことで、この年が長江顕彰元年とも言うべき画期的な年になったのです。これを契機に長江の出身地である日野町を中心に結成された実行委員会が「とっとりの文化芸術探訪事業」に参画し、以下の事業の企画を行いました。