白つつじの会タイトル

明治から昭和初めにかけて活躍した文人 生田長江について紹介します。
※「白つつじ」とは、生田長江が妻の死後、悲嘆の中詠んだ詩の題名。率直にその心情が表され創作のきっかけにもなった作品です。

   
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詩文・創作

 「創作をやろうと思えば創作もやれる、学問をやろうとすれば学問もやれる、これが批評家の批評家たるべき完全な資格者だ」とみずから語るように、長江(ちょうこう)は創作作品にも取り組み、詩文、戯曲、小説などの作品を多く残しています。
 その作品の中では、当時の社会状況に鋭いまなざしを向けた長江らしく、女性問題など社会問題を根底とした作品を残しています。

○長江の戯曲作品「長澤兼子(ながさわかねこ)」

 長江には戯曲作品も多くありますが、生前に上演されたのは2作品のみでした。大正7年に三幕物の「円光(えんこう)」が上演され、「長澤兼子」も上演されたものの、当時社会を賑わせていた某伯爵夫人の事件がモデルではないかとされ、2日目に上演禁止となりました。運命の悲しさの中で女性の自立を促した文章が目を引きます。

 
兼子
(かねこ)
私共が、なぜあんな結婚をさせられたかといふことには、初めて気が附(つ)きました。
欽二
(きんじ)
お前は遠い昔の話を引き出して来て、わざわざ問題にする気だね?
兼子 いいえ、私はこれから先きどうしたらよいかを考えて居(お)ります。

欽二 私共は播(ま)いた種を刈ったのです。私共の出鱈目(でたらめ)な、不自然な結婚に決算期が来たのです。
(戯曲「長澤兼子」(生田長江全集第9巻)より)
鳥取県総合芸術文化祭
「ふるさとの文学を題材としたドラマリーディング」より 「長澤兼子」

 平成15年10月18日と19日の2日間、鳥取県民文化会館において生田長江の戯曲「彫刻家とその妻」「長澤兼子」「温室」の三作品が上演されました。
 「〜女たちに自由がなかった時代(ころ)、究極の愛のかたちとは?〜」
 県内で活躍する3人の演出家の演出のもと、県内から選ばれた出演者たちが長江の作品に取り組み、その魅力を紹介しました。

○長江の詩「ひややかに」「一つの元素」

 
  「ひややかに」
 
 ひややかにみづをたたへて
 かくあればひとはしらじな
 ひをふくしやまのあととも
 
 
  「一(ひとつ)の元素」
 
 金剛石(こんがうせき)よりも固い私の結晶(けつしやう)が、
 氷(こほり)よりも早く融けるのを見たか?
 
 水銀(すゐぎん)のごとく重く沈(しづ)み又
 軽く跳びはねる私の心(こゝろ)よ。
 
 一定の温度(をんど)に達(たつ)するまでは、
 頑強(ぐわんきやう)に私の血は沸騰(ふつとう)しない。
 蒸発(じようはつ)してからの私の姿を
 私自身のほかの誰(たれ)が知ってゐる!
 

○釈尊(しゃくそん)

 長江は、晩年仏教に傾倒し「釈尊」の執筆の大願を立て、精魂を傾けました。執筆中病気に苦しみましたが、手が不自由になると手にペンをくくりつけ、それもできなくなると口述により執筆をすすめました。作品は未完に終わりましたが、最後までその気力は衰えることはありませんでした。 釈尊原稿
「釈尊」直筆原稿(生田夏樹氏蔵)
 
 三月(ぐわつ)、四月、五月と、ジリジリに昇りつめた熱帯的暑熱(しょねつ)を、潤葉樹(くわつえふじゆ)の病葉(わくらば)や乾割(ひびわ)れた川床(かはどこ)の泥埃(どろぼこり)と共に、總(す)べての生物(いきもの)が喘(あへ)ぎく辛らうじて堪(た)へ凌いでゐたところへ、六月にはいると、矢張(やはり)季節を違(たが)えず、亞剌比亞海(アラビアかい)からの西南季節風(モンスーン)が吹き起こって、マラバルの海岸へ吹きつけ、西ガッツの山脈を吹き越えながら、そこここに其(その)湿つぽい重荷を卸(おろ)しはじめたので、これまで夏枯れにかれきつてゐた中部印度(いんど)一帯の大平野(だいへいや)も、かの降雨期間近(まぢか)の折々の大驟雨(だいしうう)に見舞われて、その度(たび)毎(ごと)に少し宛(づつ)その生気とみづくしい緑色とを取り返していくのであった。
(『釈尊』第一部 小公子編 第一章冒頭より)

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