白つつじの会タイトル

明治から昭和初めにかけて活躍した文人 生田長江について紹介します。
※「白つつじ」とは、生田長江が妻の死後、悲嘆の中詠んだ詩の題名。率直にその心情が表され創作のきっかけにもなった作品です。

   
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論争家長江

 「批評の独立」を標榜し、同時代の作家たちを次々と論評していった長江は、「論争家」の異名を持つほど挑発的な言説を好む一面もありました。「四囲の与論に逆行してでなければ、何一つ自分の言説を持ち出すことが出来ません。所謂好んで異を樹つる方の人間であります」(「重ねて自然主義前派を論ず」)と自ら言うほど、多方面にわたり、多くの論争を残しています。

長江の白樺派批判

 明治43年4月に創刊された文芸雑誌『白樺』は、人道主義と理想主義を掲げ、自然主義文学退潮後の大正文壇に一大勢力を築きました。漱石門下の強い支援があったとはいえ、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎などの同人が矢継ぎばやに力作を発表したり、欧米の思潮や美術を積極的に紹介するなどして、一般読者にも急速に支持をひろげました。
 長江の白樺派批判は「二つの『時代』を対照して」(大正5年4月「新潮」)という論文によって始められます。武者小路実篤を師と仰ぐ江馬修を批判して「私は諸君がドストエフスキイなぞのごときエライ人々の名を心易げに挙げるとき、彼等をただのオメデタキ人々のやうに思つているのではないかしらといふ疑をさしはさむ。」などというような痛烈な一撃です。
 続いて「自然主義前派の跳梁」(大正5年11月「新小説」)、「最近思潮の一逆転」(同、「文芸雑誌」)では、武者小路実篤に対する個人攻撃の様相を呈します。当然のことながら、長江は武者小路自身や彼のシンパから激しい反撃を受けます。しかし、自然主義思潮の洗礼を受けていない自然主義前派即ち白樺派という指摘、人生の肯定は否定ののちに来るものでなければ価値がないとする長江の主張は、今読み直しても充分に説得力のあるものです


安倍能成、阿部次郎との論争

 長江は自ら創刊した雑誌『反響』のなかで、堺利彦の思想に同調し、自らも反体制的な立場に立つ者であることを表明しながら、個人と社会との関係に対する認識を次のように語っています。
 「自分をより善くすることによつてのみ、社会をより善くすることが出来、社会をより善くすることによつてのみ、自分をより善くすることが出来る。」(「堺利彦氏に答ふ」大正3年8月「反響」)
 長江としては穏やかなこの主張を、哲学者の安倍能成・阿部次郎等はきびしく批判しました。安倍は「書斎と街頭と」(大正4年1月18日「読売新聞」)というエッセイで、今の時代は自己の問題を中心に置き、自己の家を築くべき時で、社会的関心は自己の問題と比較すれば軽いものだ、という趣旨の反論を述べました。安倍のこの反論に対して、長江はさっそく強く反駁し(「所謂一大事とは何ぞや」大正4年2月「反響」)、大正4年を通じて二人の間には激しい応酬が続きました。大正5年に入ると、それまで二人の応酬を傍観していた阿部次郎が加わり、議論はさらに過熱していきます(「二つの道」大正5年4月「太陽」)。
 長江はこの阿部次郎にも辛辣な反論を返していますが、個人が純粋な自己であることは決してなく、絶えず社会の中で他者との関係の中に存在するものであり、それを通じてのみ真の人間の姿も発見でき自己改造も出来るのだ、とする長江の信念は、近代社会の本質に対する深い認識を示す言葉として、後世の識者からも高く評価されています。


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