明治43年4月に創刊された文芸雑誌『白樺』は、人道主義と理想主義を掲げ、自然主義文学退潮後の大正文壇に一大勢力を築きました。漱石門下の強い支援があったとはいえ、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎などの同人が矢継ぎばやに力作を発表したり、欧米の思潮や美術を積極的に紹介するなどして、一般読者にも急速に支持をひろげました。
長江の白樺派批判は「二つの『時代』を対照して」(大正5年4月「新潮」)という論文によって始められます。武者小路実篤を師と仰ぐ江馬修を批判して「私は諸君がドストエフスキイなぞのごときエライ人々の名を心易げに挙げるとき、彼等をただのオメデタキ人々のやうに思つているのではないかしらといふ疑をさしはさむ。」などというような痛烈な一撃です。
続いて「自然主義前派の跳梁」(大正5年11月「新小説」)、「最近思潮の一逆転」(同、「文芸雑誌」)では、武者小路実篤に対する個人攻撃の様相を呈します。当然のことながら、長江は武者小路自身や彼のシンパから激しい反撃を受けます。しかし、自然主義思潮の洗礼を受けていない自然主義前派即ち白樺派という指摘、人生の肯定は否定ののちに来るものでなければ価値がないとする長江の主張は、今読み直しても充分に説得力のあるものです |